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聶耳(NièĚr)との空言

今日は2021年07月17日である。梅雨が明け真夏日である。 
 
自宅から20分ほど歩くと鵠沼海岸にたどり着きます。左に江の島、右に富士山、正面に伊豆大島が見えます。その砂浜の手前に中国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者聶耳の記念碑があります。
 『何故ここに?』 
記念碑には86年前の1935年(昭和10年)7月17日にこの海岸で24歳の若さで溺死したと。
でも私の脳裏に微妙な違和感が…
 
『わずか24歳の若さで中国の国歌を作れるのだろうか』
『本当に溺死なのか?』
  
私は聶耳のレリーフを眺めながら呟いた。
するとレリーフの彼が突然口を開きまた。
「だよね、24才の若造が13億人の中国の国歌など変だよね。それとも私は天才なのかね? 
確かに故郷、昆明の池の畔でバイオリンの練習をしていると多くの人が聞き惚れ天才と云われたけど十八歳の時に上海に上京したら私より上手な人が沢山いたよ」
「で、挫折したの?」
「それでも偶然、有名な上海歌劇団の切符切に採用され、それからかな、人生の機転は」
「転機とは?」
「劇団員の多くは国民党の腐敗に未来を悲観していてむしろ共産党の人が多かったね」
「日本対中国の構図ではないの?」
「表向きはそうだけど実態は国民党・共産党そして日本との三つ巴だね」
「それで」
「私も劇団のマドンナ江青(ジャンチン)に誘われて共産党に入党したんだ」
「えぇ、江青って、毛沢東の四回目の奥さんのあの人?」
「毛主席との結婚は私が死んだ後の話で、その頃の私と江青は結構ラブラブでね」
「良いね。将来を誓い合ったりしたの?」
「まあね、彼女が演劇で私は音楽で共産党運動を盛り上げようと夜な夜な話したよ。
その時に作ったのがその後国歌になる『義勇軍行進曲』だよ」
「でも何でその後見知らぬ日本に来たの」
「共産党は日本留学経験のエリート派と草の根叩き上げの毛沢東派と内部抗争していたんだ。
私は留学組に彼女は草の根組になってしまい、その後毛沢東に彼女を横取りされて」
「なら、何故に貴方の曲が国歌に」
「江青が青春の思い出にと毛沢東に甘えて頼んだからだよ」
「毛沢東も若い女には甘いね。で貴方は」
「バイオリンを極めようと日本の支援者を頼りに日本経由でソ連に留学する予定で日本で数日間ビザ待ちしていたんだ」
「波乱な人生だね」
「それで日本を離れる前日に支援者と近くの鵠沼海岸に海水浴に行ってね」
「水泳、得意でしょ」
「そうだけど、波のない昆明の淡水湖と波の荒い太平洋とはかなり違い大量の海水を飲んでしまったんだ」
  

「何で助けを求めなかったの?」
「だよね、そうだけど、このまま今生を終えて空の上で江青を待つのも良いかなと、そこから先の記憶は消えたね」
「何となく分る気もするけど」
「でも、翌日の朝日新聞湘南版には私の水死体発見と監察医の検視コメントが」
「へぇ、で、どんなコメントなの?」
「死因は溺死ではなく『時代』だと」
「ふん、そうなんだ。『中島みゆき』だね。そんな死に方も良いかもね」
 (注)・・この話は創作で事実ではありません。