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中国長沙にて

中国内陸部の湖南省長沙に行きました。 省都の長沙から車で1時間半ぐらいで
毛沢東の生家を見てみたいと思ったからです。

中国上海行くと綺麗な公園がたくさんあります。

人民公園・中山公園

などですね。でも私が仕事で何度か訪問する南京・深圳・大連にもやはり
人民公園・中山公園があります。

中山公園の池の前で待ち合わせでね・?

と約束したら、上海と南京と間違える? なんてことは無いとは思うけど、
どうして同じ名前の公園が中国各地にあるのかと疑問に思っていました。

中山公園は孫文(孫中山)を記念する公園だとの事は容易に理解できますが

人民公園は・・

と聞かれたら中国人なら誰でも毛沢東を記念する公園だとすぐに推察できると思うけど、
でも何故

人民公園を“毛沢東公園”と云わないのか?

近代中国で最も影響を、または結果を残した人物は誰かと・・尋ねれば多くの人は、
この二人だと答えると思います。

革命の父(孫文) ・・自由主義者
建国の父(毛沢東)・・共産主義者

自由主義(後の国民党)と共産主義とでは目的や主張は裏表のような関係かと思いますが
どうしてこの二人が単なる銅像だけではなく日常生活に溶け込んでいる公園という姿で
人々の記憶に留めているのか・?

百数年前の清朝時代の中国は欧米列強に搾取され自尊心はボロボロになっていたと思いますが、
その時に中国の独立の旗印を掲げを先導したのが孫文の辛亥革命だと思います。
然し、彼は志半ばで病死(58才)してしまいます。
カリスマを失った中国はまた混沌とします。
その後、日中戦争や国共戦争(内戦)等のごたごたを経て毛沢東がソ連などの支援を受け
中国の独立を果たしたのかと思います。
孫文がキッカケを作り、毛沢東が色々批判もあるとは思いますが結果として栄華を誇った
中国の再興の果たしたように思えます・・

その後、当人の意思とは思わないが

孫文は中山公園(孫文は孫中山という名前です)
毛沢東は人民公園(自分の名前を冠しない・・良い感じと思う)

結果として2人の名前を冠した公園という形で中国各地に歴史(業績かも)を残したような気が
していました。

そんなことで湖南省長沙に行ってみました。
暑い・・中国は3大火鍋地域(南京、武漢、重慶)は知っていましたが良く考えれば長沙は武漢と
重慶のアイダぐらいなので暑いのは当たり前・?
(蛇足)毛沢東は水泳が得意と聞いていたが、田舎育ちが何故・・と思っていたけど
火鍋のとなり村に住んでいればクーラーのない時代なら池で泳ぐのは合理的は避暑だった
理解できました?
タクシー(1時間半)で毛村に到着(住民の70%が毛と云う名前)
まず驚くのは広さである。(日本の感覚とは異なる)なのでエリア内をタクシーで動くことに
なった。
また観光バズで大勢の観光客と学習目的の中学生らしい団体で夏いのに更に熱気が・・
最初に毛沢東の巨大像と遭遇する?(江沢民の指示で北京から移動させたらしい)
次に毛沢東の生家行くが90分待ちとの事、中国らしい高い別途の切符買い横からすぐに入る)
寝室(蚊帳が)炊事場、家畜の部屋、道具保管、水の保管池、家族の部屋(田舎わりに裕福?)
そして引退後に故郷で住みたいとの事で作った別荘(滴水洞一号楼)に行くが結果的に15日
程度滞在しただけで北京に戻ってしまう(理由は不明)

孫文(1866年11月)は欧米日本など当時の先進国への留学などを通じて近代国家のあるべき姿
を学んだ超エリートの立場から中国の復興を目指したと思います。
一方毛沢東(1893年12月)は湖南省長沙からかなり離れた田舎に生まれた単なる読書の好きな
子供でした。いわゆる叩き上げのように見えます。
その彼がどうして孫文不在後の混沌を制して中国のTOPになったのか?
また長沙という土地柄は毛沢東以外にも有名な劉少奇、胡耀邦なども輩出しています。
彼の足跡が(滴水洞一号楼)に詳しく展示されていたので見学するとその理由の一端が見えた
と思いました。
・この地域は学習熱が高い(日本の幕末の長州萩のような感じがする)
・情報が無い時代に彼は熱心にし小さなサークルを作り庶民の目線で国の将来を熱く語っている
・それを何度も繰り返しいている(次第にシンパが出来き連鎖する)
これは孫文のようなキレイで論理的でもなく、当時の共産党には教養の高いエリートがTOPに
いたけどそれを押しのけて彼がTOPになったのは庶民の目線で庶民に近い立場で繰り返し説明を
する熱心さが貧しい庶民には高い評価をされたような感じがしました。
(情報のない時代が故の成功モデル?)

翌日湖南師範大学(毛沢東が通った学校と思ったが間違っていた?)等見学をしながら
タクシー(チャータしてました)の若い運転手(25歳)と学食でランチをしました。
バイキング方式でプレートに好きなものを取って会計は“重さ”だったので(ビックリ)
ランチをしなががらその若い運転手に聞きました。

最近中国の若者の間で『過去很好・・昔は良かったとの意味』との言葉が流行っていると
本で読んだことがあるけど、どう思いますか? またその昔とは何時の事ですか?

若者は言葉を選びながら
中国は鄧小平の黒猫白猫戦略で経済成長を目指し安い人件費を武器に高度成長を実現して現在は
世界第二の経済大国になりました。でも足元を見ると過度な経済格差により手を付けられないほど
貧富の差が広がり『昔はみんな貧乏だった。でも全員平等だった』
色々批判もある人だとは思いますがそんな毛沢東時代を懐かしむ世情だと思います・・・

のような話をしました。
社会が見えている若者と感じました。 中国でも日本でも色々な問題点を抱えていると思い
ますが、このような“問題点が見ている”若者が次の新しい中国を作るような(そうして欲しい)
感じがしました。
学食のランチは(正直、不味かったが)とても気分の良いランチでした。 謝謝